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柳原50年の歴史

新聞業界50年の歴史を語る【総集編】

第1回(平成16年4月号)

●28歳の時「独立の覚悟」を決めました。

昭和2年1月1日、 柳原家の長男として村櫛町にて誕生。

村櫛の「庄屋」という裕福な家庭に生まれたものの、あらゆる事情により小学校6年生の時、自分の生まれ育った家は人手に渡ることになりました。この時の寂しさや辛さは今も忘れられません。だから、将来は「絶対自分の力で何かを成し遂げられる人になろう」と決心したんです。

サラリーマン時代は、静岡県農協販売連の仕事に就きました。果物や野菜の販売担当で、すいかの季節には、日本のすいかの流れを調べるために東京神田の市場に一ケ月通いつめたりもしたんですよ。

とはいえ、その頃の農協団体の生活の派手なこと!農家のおぼっちゃんばかりの集まりで、このままでは給料はすべて小遣いでとんでいってしまう。「自分の描く将来像とは違う」と背広を脱ぐ覚悟を決めました。ちょうど28歳の時でした。

●風間新聞店での経理の仕事を経て、毎日新聞社の鞄持ちで県内を回りました。

サラリーマンを辞め、職業安定所に行くと市役所の税務課を勧められました。約半年勤めたものの、自分には向いていないと退職。次に紹介されたのが、掛川最大手の風間新聞店。 面接に行くと、まっ先に見せられたのが経営状態が決していいとは言えない「帳簿」。「君はこれを見て何を思う?」と問われ、即答したのが「よくこれで店をやっていけますね」と皮肉まじりの生意気な言葉。が、事実をそのままに言葉にできる実力を買われ即採用。

約5年間の日々は「新聞店とは意外と面白い仕事だ」と感じ、「利益を生むことも自分ならできるかも知れない」「定価販売だから安定している」。新聞店としての仕事への思いは強まりましたね。風間新聞店での仕事ぶりを認められて、毎日新聞社から誘いを受けました。静岡県内の販売店を回っている毎日新聞社担当員の補助。つまり鞄持ちをしながら、県内の新聞店をくまなく観察。

合売店の中には帳簿のない店もあり帳簿のつけ方を教えたり、毎日新聞本社とのとりひきの仕方まで学んだり…。

すべてのノウハウを体全体で習得するいい機会でした。

●周囲の反対を背に、「絶対モノにしてみせる」と柳原新聞店の誕生へ。

当時の新聞店といえば、新聞社の直営店と自営店が入り乱れている時代でした。そんなある日、浜松で毎日新聞販売を手掛けていた今喜多新聞店の廃業の話が飛び込んできたんです。迷うことなく引き継ぎを決意しました。

当時、市内の販売部数は、読売新聞1万2千部、朝日新聞1万部、毎日新聞7千部、中日新聞3万2千部という中で引き継いだ数字は、毎日新聞1038部というわずかな部数。現在の六間道路沿い、追分交差点角から2件目に店を構え、「絶対この店をモノにしてみせる」と決意しました。

その為には何が必要か。社員がまとまる「団結」、負け犬にならない「闘志」、必ず店は大きくなるという「自信」、お客様に好かれる人になろうという「誠意」をわずか8名の社員の前で語りました。そして、皆で仲良くやろう、と話しました。

周囲からは「柳原新聞店はもっても3ケ月。よく引き継いだものだ」と言われる始末。でも私には大成功できる作戦があったんですよ。

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第2回(平成16年5月号)

●3月3日、晴れ。忘れもしない開店初日の出来事。

借金をして、当時の私にとっては莫大なる金額を納めました。毎日新聞社と、そして今喜多新聞店との契約を終え、引き継いだ新聞は毎日新聞、静岡新聞、スポーツニッポン、そして日本経済新聞…のはずが、初日に届いた新聞に日本経済新聞はありませんでした。「どうして?なぜ?という思いと、どうしようもない悔しさが込み上げて…」。

日本経済新聞の販売権利は、様々な裏策の中で、順路帳と共に他店に移っていた。やけになり、飲めない酒を飲み…。その時「よし、日経なんてなくてもやってみせるぞ」と心に誓いましたね。

初日、無事朝刊の配達を終えた時、従業員の一人が来て「おやじさん、ちょっと顔をかせや」。

静大の前の飲み屋さんに行くと8名の従業員が揃って私を待っていました。「あんたみたいな若僧には、この店はやれっこないんだよ」。そして「店主が代わったのを機に、今から賃上げを要求する。一人一万円(今でいえば約10万円)を給料に上乗せして欲しい。それが無理なら今からストライキに入る!」と鋭い言葉。今喜多新聞店から続く従業員は、40歳代後半から60歳代の集まりに対して、私は34歳。怒りや驚きを押さえ、淡々と話しました。

「今日、初めて皆と顔を合わせた。要望もよくわかった。でも、まだ皆の能力もわからない、家庭も知らない。そんな中で賃上げの要求を出してくるというのは無茶な話じゃないのか?」。そして、「私からの条件をまず守って欲しい。それが嫌なら今すぐ辞めてもらって構わない。代配の10人や15人を頼む力が私にはあるんだから」。力強く答えましたね。

●僕を信じてくれる人だけが残ってくれれば、それでいい。

他の販売店主はどこも県外や市外の人ばかりでした。でも私は今、浜松で初めての『純粋なる地元生まれ』の販売店主となったんです。

「私はどこの店主よりも浜松のことを知っている。私を信じてくれる人だけが残って欲しい。この店を絶対成功させてみせるから」と語りました。すると「わかった。おやじさんのやり方をみせてもらおうじゃないか」。穏やかな言葉を受け、皆でお酒を飲み交わしました。

お店を出た時には、すでにお昼を過ぎていましたよ(笑)。

●浜松初の「トラックと、バイクによる配達」を導入。

静岡県農協の販売連に就職市、 初の勤務地小笠原支所まえにて。 免許の取得は23才のとき。 当時はまだまだ珍しいとされる トラックの運転を任されていた。

従業員とは常に現場を共にしました。当時は貨物で届く新聞を皆で浜松駅まで取りに行ったんですよ。自転車の荷台に新聞を積み、六間の坂を上り、店へ戻る…その効率の悪さにはがく然としました。

すぐにオート三輪を購入し、翌年には配達用のオートバイを購入、どれも浜松では初の導入でした。

毎日、全部のチラシを重ねる役目をこなし、従業員の昼の用意をし、台所には常に一升瓶を置いておく…。私が何の相談もせずに始めた店でしたが、家内(すず子夫人)は黙々とやってくれました。すべては従業員が働きやすいように、との心遣い、嬉しかったですね。

そして、私は仕事の合間に従業員の家庭を訪問し、皆を知るよう努めました。彼らは、少しずつ私たちを信頼してくれている様でした。

「店を潰さない為には、お客様を増やすしかない」。思いを廻らせ高台地区を歩いてみると、他店の目の行き届いていない区域があったんです。そこで、どこもやっていない『集団拡張』に挑戦しました。

「1人より2人で、2人より3人で、各地区を攻めようよ」と私が言うと「いいじゃん、やろう!」。皆の威勢のいい声が頼もしかったですね。 

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第3回(平成16年6月号)

●営業強化になぜ集団拡張だったのでしょうか。

貨物に乗せられて浜松駅に届く新聞。他店は『六間の坂を上り下りし、配達に時間がかかる』と判断していた地域を営業の対象外とみていた。それが高台地区だったんですよ。そんな盲点である浜松の北部方面を中心に顧客を広げる作戦を続けました。

いつも考えたことは「従業員の生活をよくしてあげたい」、「仕事は楽しくなければいけない」。その為にも、働き安い職場にする手段はないだろうか…。そんな時、「集団拡張」という「手」を思い付いたんです。

「2人なら、知らない家のドアを開ける勇気が出るだろう」「3人なら、お客さんと堂々と話ができるはずだ」と。

●毎日が「営業の日」でした。

毎日、夜の9時まで営業をしよう、と声を掛け合いました。

ある時、私が耳にしたのが「この新聞店の人はいい人だから、新聞を取ってやんなよ」。お客様が知り合いの人に掛けてくれた言葉。「あ〜、新聞を売るだけではないんだ。人間そのものの良さを売り物にしなくてはいけない」と。

以来、毎月会議を開き社員教育に力を入れました。「拡張員」、つまり営業専任を置く店もありましたが、それではお客様と良い関係は保てない。配達員自らがお客様を大切にしなくてはいけない、と私は一度も専任を置いたりはしませんでした。

●支店第1号、北部店。

2年目を迎えた昭和37年4月、支店の第1号となる「北部店」(現在の萩丘店)が1000部弱の顧客を抱えて開店しました。「北部店が成功した理由は、主任として迎えた杉浦儀市君でした」。

今喜多新聞店から引き継いで働く従業員に、新たに加わっ たのが故杉浦儀市さん。遠縁から「彼を育ててくれないか」との言葉とともに紹介され、私自身が採用した初の従業員です。威勢がよく、度胸のいい青年。八方破りな行動も目立ちましたが「すべての責任は俺が取る。好きなように仕事をしてみろ」と彼を信頼しました。すると、恐いものなしの兵の上、「誰にも負けたくない」という勝ち気な性格。しかも、人との接し方が上手く、お客様を決して怒らせない人の良さ。すべてが営業向きで、抜群な成績を残してくれました。

「北部店は彼に任せよう」。親分肌の彼に、新たに8名の従業員を付けました。どんな仕事も決して嫌とは言わず「俺は何でもやるよ。おやじには世話になったから」と笑う彼。

集団拡張の先頭にはいつも「儀市」がいた。「この店を大きくしてやろうじゃないか」。そんな姿が見えていました。

●計算し尽した、店舗の拡大。

エリア内に付けられたコンパス線も色あせて

営業の弱い地域には店の全員で出向く。そんな「集団拡張」は、団結する意識を作り上げました。2支店を競合させ、個人を、そして店を表彰する。仕事が楽しいと活気づく中で、私も目標を掲げました。当時6支店と栄える読売販売店並みに『店舗数を増やしたい』と。

昭会長の手元にある色褪せた地図。支店を中心に、半径5・、10・…と幾重にも円が描かれています。これは、一支店が管理可能と推測される範囲と住宅数、それに対する配達距離、そして仕事の効率、すべてを見計らった縮図なのです。

そんな計算し尽くされた中で発展していく「北部店」。地図を睨み、続く3番目の支店は東方面、「野口」と決めました。


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