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柳原50年の歴史

新聞業界50年の歴史を語る【総集編】

第4回(平成16年8月号)

柳原本店に北部店。続いて野口店。集団拡張の成果は着実に表れていましたが、この時期は昭会長、すず子夫人にとって、一番大変な時代だったと言えるのかもしれません。

●東方面、その狙った先は『近藤紡』。

昭和40年4月、中央アカマ新聞店より浜松東エリアの「顧客を引き継いでほしい」との話が舞い込んできました。「柳原を大きくしたい」と夢に突き進んでいた時の「願ってもない話」。

アカマ新聞店の社員をそのままに、翌月、野口店を開店させました。

当時の東エリアは、読売販売店が独占。その中に入っていくには『営業』でお客さんを増やすしか手はありませんでしたね。当時は、どの新聞店も、仕事とは新聞を「配達する」ということだけ。引き継いだ社員も、もちろん同じ考え。営業の大切さをじっくり教えました。そんな中、目をつけたのが「近藤紡」。中日新聞店が守衛所だけに配達していましたが、なんとしてもうちが入り込みたい。私が総務課に出向き、また労働組合にお願いして、寮や社宅への配達を確保。

これで100件の拡張に成功しました。

●当時の新聞店とは…。

昭和40年代は高度成長期の時代。『青田刈り』で、働き手は皆工場に行ってしまう。まさに柳原は『金もない、人もない』 という苦しい時代でした。

そんな時、新居の鈴木新聞店から「この子を育ててくれないか」と高校を中退した少年を預ることになりました。また、高丘の中学を出たばかりの少年、静大の夜間に通う青年、そして人手不足により依頼した新聞社からの代配要員。我が家には常時6人程の従業員が住み込みで働いていました。

若い彼らには、仕事を教えるだけでなく、自分の将来にどんな希望をもって生きるか、と語りかけました。新聞店での仕事は人生の通過点でも構わない、と。

社会人としての姿勢を学んでくれて、1人は日立へ、そして遠州鉄道へ、遠州米穀へと就職していきました。今も元気な姿を見せてくれます。わが子のようなものですよ(笑)。

●順調だったはずなのに、突然の入院。

1978年、豊川稲荷への社員旅行

従業員の清水保君の自宅を改築した野口店も、清水夫婦の『顔』で飲み屋街は制覇(笑)。また、従業員の小粥君は、野口町に多く住む小粥一族を拡張。柳原は、順調に大きくなっていったように思います。

時代と共に団地も増えてくると、営業の手段も、激しい争いになる。引っ越しトラックが交差点で信号待ちした地点で営業を始めたりして(笑)。皆と働く日々は楽しかったですよ。そんな時、家内からは「4時間の生活だ」と言われました。早朝2時に起き、紙取り、配達、そして日中は営業…。睡眠時間はいつも4時間の毎日だったんです。

突っ走ってきた生活に疲れが出たのか、ある日突然40度以上の発熱が1週間以上も続きました。日本脳炎と診断され救急車で鴨江の隔離病舎(当時)へ回されたんですよ。

一ヶ月の入院中は家内がすべてを切り盛りしてくれました。住み込みの従業員の世話から本店と2つの支店の管理、折込み作業…。

「その日の報告」を兼ねた毎日の見舞いに、一度だけ「なんでこんなに大変なんだろう」と弱音を吐いたことがありました。がむしゃらに働いたあの頃、家内に掛けた苦労は並大抵のものではなかったと今でも思っています。

結局、髄膜炎ということが判明。毎日新聞の担当員が「明日からオリンピック。日本脳炎じゃないのなら早く出ろ」と病院の許可も得ずに退院(笑)。忘れもしない、東京オリンピック開幕の前日でしたね。

産経新聞の取り扱いも始まり、昭和44年北部乙店開店。さぁ、朝日新聞店の弱点が見えていた区域への進出を始めました。

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第5回(平成16年9月号)

病に倒れ、すず子夫人に店を任せた時期があったものの、昭和44年には4店目となる北部乙店(現初生店)開店。 現在、初生店に勤務している伊藤志づゑさん宅の軒先を借りて始まったという当時を振返ります。

●必ず伸びると予測して。

交通の便が悪く、他の新聞店も大して営業に力を入れず、普及率の弱い「初生」への進出を始めました。

新聞配達を終えると、市の「都市計画課」へ出向くという私なりの調査が日課に加わりましたね。そして、初生は必ず伸びると予測したんです。東名西インター近く、発達し始めた金指街道、自衛隊の官舎…。好条件が並ぶこの地域を、見逃すわけにはいかなかったんです。農地から、宅地に代わる情報を市役所から得ると、すぐ拡張に動きました。

そして、もう一つの成功要因は「地元に住み、地元を知った、人脈のある人に働いてもらいたい」と、すべて地元の人で揃えた4名の従業員。

自衛隊官舎も、従業員の一人が自衛隊三佐の奥さん。彼女の「顔」で約4割の拡張に成功。初生店は「地域と関わりのある従業員の皆に助けてもらった店」だったんですよ。

●夫婦で働ける職場を目指して。

自宅軒先を貸してくれた伊藤さん夫婦に片岡さん夫婦、平岩さん夫婦、杉浦さん夫婦…と各支店の主任を任せた人たちは、ほとんどが夫婦、家族で働いてくれました。

旦那さんが働く姿に「私も手伝う」と協力してくれ、店はどんどん大きくなりました。 まだまだ、女性が社会に進出する時代ではありませんでしたが、「男も女も仕事をやる上では関係ない」と、男女平等の待遇で迎えました。「夫婦で働き、家族が豊かになって、立派な家庭を作って欲しい」というのが私の願い。そうすれば、仕事にもゆとりができるんですよ。

その後、多くの女性従業員が入社し、大きな力として、今も頑張ってくれるのは嬉しいことです。

●開店5年目、増紙13倍に達した静岡新聞。

開店当時は「よく引き継いだものだ」と言われましたが、5年目の増紙率は、毎日新聞2.9倍、静岡新聞13倍、スポニチ16倍。静岡新聞が増えた理由は、価格が安いこと・拡張の成果、というだけでなく、新聞社側の紙面改革がなされたことも大きなきっかけでしたね。

当時、連日カラー面のある新聞は静岡新聞のみ。その見やすさ、読みやすさが好評を得ました。「良い新聞を売りたい」と皆で注いだ情熱が功を成し、着実に成果を表し、読者からも認められる新聞になれたことは私たちにも大きな自信となりました。

●柳原が強い地域と、そのわけ。

弥生団地の誕生を睨んでの富塚店に続き、野口店、三方原店と店を広げました。特に三方原地域は、8割のシェアを独占しましたね。初生店に続くエリアを三方原店が引き継ぐという形で…。

他店が目もくれない広い三方原の町は、120件配るのに2時間を要するという効率の悪さ。でも「将来は必ず開ける。今は犠牲を払ってでも…」と自分に言い聞かせました。

まだまだ、目指す「読売新聞店」には及ばない時代でしたが、自信を持って「強い」といえる地区は、三方原町、豊岡町、神ケ谷町。すべて、地元で生まれた従業員が地元で働き、拡張の「基盤」を作ってくれた結果なんですよ。

繰返し訪れる寒さの厳しい冬。東京の問屋街で見つけたヤッケは暖かそうでした。フードを被って紐を結べば風を防げる。胸には順路帳を入れるのにちょうどいいサイズのポケットも付いている。少しでも暖かく…と従業員全員のヤッケを購入して浜松に戻りました。

「皆喜んでくれるかな」。順調に大きくなる店に、従業員への感謝の想いは深まるばかりでした。

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第6回(平成16年10月号)

六間道路沿いに開店した柳原新聞店。他店が目もくれない北部に2店目を出すと、続いて野口、初生、富塚…。傍目には順調過ぎるほどの成長を描いていたものの、その陰には「お金の工面」という最難題が常に襲っていたのです。

●手元にあった資金は70万円。

掛川の風間新聞店を退職し、今喜多新聞店から販売店を引き継ぐと決意した時、私個人の全財産は当時のお金で70万円。お酒を飲むわけでもなく、毎日コツコツと貯めたお金でした。

新聞店を引継ぐには、前任者に部数に掛る「営業権」を支払うんです。静岡新聞代16万5千円、毎日新聞代66万円を今喜多さんに支払いました。その上、各新聞社には「保証金(新任金)」が必要。静岡新聞社に6万円、毎日新聞社には70万円を揃えなくてはならない。

若さだけが取り柄の中で、家内の実家から、友人から、親戚から、育ての親から…。「私を信じて貸してほしい」と頼みました。当時としては、私にとっても相当大きな額でしたよ。

●新聞社への期日の納金が苦しくて…。

毎月新聞社にお金を納めるんですよ、売り上げの約7割を。でも、お客様からの新聞の集金はそんなに簡単に集まるものではない。だから、納める日が来ても手元にはお金がないんですよ。「お〜い、お金借りにきたよ」って、毎月毎月出掛けました(笑)。県内の新聞店を回っていた時に世話をした販売店が、今度は私を応援してくれて…。

そんな月日が5年以上続いたある時「本当に佐野を相手に戦えるのか?」と言われました。「金が無くなって、潰されて、穴捲って逃げるんじゃないだろうな」って。「絶対やってみせるから!」と答えたものの、内心はドキッとしました。

でも、自分の中では、浜松の企業の中で、「新聞販売業」だけ地元生まれの経営者がいないというのはおかしい。なんとしても自分が成功してやろう、という思いがいっぱいで。

あっ、借りたお金は、集金が終わるとすぐ返済に行きましたよ(笑)

●桃栗3年、柿8年。そして柳原10年。

いろいろな諺がありますよね、桃栗…とか、石の上にも3年とか。私自身も数年で会社は作られると目論んでいました。

が、実際は一人前になるのに10年、黒字経営が見えてきたのは20年目を迎えた頃でした。 一番苦労したのは「人手がない」こと。どんなに頑張りたくても働き手が新聞屋に来ないのですから。でも、次第に従業員が定まり、購読数も増えて。安定するのに10年の辛抱ということでしたね。

今でこそ好きな服を買いますが、当時はいつも社員と同じジャンバー姿。贅沢はしませんでしたよ。社員と同じ行動をしよう、皆兄弟だ、という気持ちを忘れないで仕事に携わろうと決めていましたから。

どんなにお金がなくても「柳原に身を置いてくれる従業員に苦労は掛けたくない」。給料の未払いや遅滞は絶対しない、と言い聞かせていました。 でも、社員もお金の無さは気付いていたと思います(笑)。

●江崎、清水、そして柳原、3社長の勉強会。

やっとゆとりも出た昭和50年代、県内最大手の江崎新聞店社長、清水市最大手の清水新聞店社長と勉強会を始めました。10年もの間続いたでしょうか。議題はいつも「将来の新聞店とは」。

江崎さんは『請負制』、清水さんと私は『給料制』。「社員制度の充実」が私の意見でした。労災、休業制度等を確立し、毎日系の専売店に勤めるとこんなに良いことがある、と皆に感じてもらいたいと思ったんです。 配達時間の限度とは?普及率の高い地域と低い地域での従業員の賃金の差はどうしたらよいか?等々。小さな問題もトコトン意見を出し合いました。

新聞店を「一つの企業に育て上げたい」との思いが自分の中で益々強まっている時でした。

●名古屋寄りの街、浜松。

東部は東京寄りの街、中央は駿河の国として役人・サラリーマンの街。そして浜松は職工の街・企業の街。地域の特徴を捉え、営業一つをとっても、三者三様のやり方があることを学びましたね。

特に浜松は、新聞普及率も悪い上に『中日新聞』の勢力が絶大な街。営業に出掛けても、ドア越しに返される言葉は「静岡新聞って何?」とそっけない。まずは『静岡新聞』という名を浜松の人に知ってもらわなくては…と考えました。

他店が目もくれない地域を探し出し、茶畑、山間僻地も隈無く営業を繰返す。次第に『静岡新聞』の購読者が増えてくるのは喜びでしたね。

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