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柳原50年の歴史

新聞業界50年の歴史を語る【総集編】

第7回(平成16年11月号)

11月1日、産経新聞東京本社より感謝状を贈呈されました。

2004年産経新聞社より感謝状

36年間に渡る普及発展の努力と功績をたたえ、産経新聞東京本社より招待を受けた昭会長。

江口峻本社販売局長から「これほどまで新聞店を大きく育てた、その成功の秘訣は何だったんですか?」と問われた時、「言葉では言い尽くせない苦労がどれ程あったことか…」。あらためて、自身を振返える機会にもなったそうです。

●中日新聞の取り扱いを直談判した時があった。

今から25年位前のことになりますが、中日新聞の取り扱いができないかと考えたこともあるんですよ。

毎日新聞中部本社に行くついでに、中日新聞社に顔を出していたので人脈もあった。すると、本社の販売局長から「会って話をしよう」と。

結論は「浜松全域の中日新聞の取り扱いを柳原新聞店にお願いする。その代わり…」。出された条件は「静岡新聞のすべての取り引きを辞めること」。この瞬間に、中日新聞への思いを一切断ち切りました。

●県下一の『正常販売』を守り抜く地区となりました。

私が中日新聞社に出向くのは、他の新聞店主から見れば異様なことだったと思います。

ライバルであり敵地ですからね。どこの新聞店もそんな交流は行っていませんよ。でも、同業者同士の付き合いは絶対必要ですし、新聞店を続けていく上で共通の問題は必ず出てくる。皆で話し合わなくてはいけない、と私は考えたのです。

次第に、毎日、中日、読売、朝日の代表店主会を開こうと声を掛け合い、「物をあげない」「定価で販売する」等、決め事を確認しあって結束していきました。

県内でも、西部は新聞店が入り乱れ、まとまりのない地区と思われていたようですが、実は正常販売の一番守られていた自慢の地域だったんですよ。

●チラシと新聞、数はなんとバラバラでした。

新聞販売店の貴重な収入源の一つに折込みチラシがあります。当時のチラシは、印刷会社から直接各新聞店に届けられるのです。その枚数はすべてが「どんぶり勘定」。浜松地区に届くほとんどは中日新聞へ回るものばかりで…。新聞数とチラシ数が合っていないんです。「こんな無駄をしてはいけない」と思いましたね。

そこで、浜松商工会議所の印刷部会を通じて、チラシを出す側の大手スーパーや百貨店、印刷会社・販売店等関係者に、チラシの印刷部数や新聞販売店の新聞数の現状を公表しました。わかりにくい折込をわかりやすくしようと思ったのです。それが、広告主への配慮でもあるわけで。「東海オリコミ」設立のきっかけにもなりました。

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第8回(平成16年12月号)

支店が8店に増え、新聞店が順調に動き出した中で、折込業界に進出することを決意。自社の利益だけではない「お客様のためにも、今の現状を変えなくては」との思いからでした。

●新聞店の最大の収入と見込んで。

江崎、清水との勉強会の中でも話題に出始めていました。「これからの新聞店の最大の収入は折込手数料になるだろう」と。

当時は、すでに中日新聞系や読売新聞系が新聞社独自で折込会社を設立していたんです。いずれ新聞社が折込業界を独占する時代がきたとしたら、新聞店に届くチラシの量に差がでるだけでなく、新聞社に手数料も払わなければいけない。3社の中、一番最初に折込業界に名乗りを上げたのが清水新聞店でした。静岡新聞社に許可を得て、「折込業は我々にお任せ下さい」と宣言したのです。 柳原も、新聞店だけで満足するのでなく、手を打たなければ、と焦りました。

●第一歩は一貴氏(社長)の修行から。

折込業界はズブの素人ですよ。だから、すべてを長男である一貴(現社長)に任せようと決めました。

大学を卒業したばかりの身を、茨城県に送りだしたのです。西村さんが折込会社を始めると聞いた。彼は毎日新聞販売局次長を退職したばかりで、この地を選んだのも、かつて営業で活躍した土地だからだという。

『茨城クリアーオリコミ』と社名を掲げ、土浦阿部新聞店の軒先を借りて、机一つの会社をスタートさせました。浜松から飛び出した見も知らぬ土地。折込業界とは何か?ゼロから始めるにはどうするのか?広告主、代理店、印刷会社を駆けずり回って、地盤を作らなくてはいけない。

西村さんの仕事ぶりを真似て、体で仕事にぶつかることを学んだようでしたね。営業やトラックの配送と、折込業務のすべてを経験して、浜松に帰ってきました。

●「東海オリコミ」誕生へ。

柳原新聞店の2階を拠点として、事務員・営業共に1人、運転手がたった2人、という会社が始まったのです。

今度は折込営業の毎日が始まりました。当時はイトーヨーカ堂、ジャスコ、長崎屋等、大手スーパーの開店という盛期の頃。地元の百貨店を始めスーパーへの交渉、名古屋方面への営業に、と奔走しました。

チラシは黙っていても届くから、とドンと構えている他の新聞店に対し、事業をもっと展開していかなければ、と積極的に動き、東海オリコミに次なる夢を掛けましたね。

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第9回(平成17年1月号)

●曵馬店、佐藤店へ。

販売エリアの拡大にともない、曵馬店を開店させました。電車通りの拡張に全力を上げようと考えたんです。続いて佐藤店。店舗が増えれば増えるほどお客様は増えました。「お客様との距離が近くなる」んですから。

配達のルートが確かとなり、新聞配達の基本である「早いお届け」や「決まった時間の配達」ができる。読者の要望にできる限り応えられる新聞店作りに努めましたね。

●中心部に店がない弱味を克服した栄店の誕生。

毎日新聞社浜松支局の斜め前に栄店を開店させたのは、中心部の読者を獲得するためでしたね。着々と他の新聞店に対抗し、拡大綱を広げていきました。

昔は、どの支店にも宿直室を構えていたんですよ。従業員やその家族が住んで、電話番や不着、誤配に対応するんです。 早朝から深夜に及ぶ区切りない労働に「家族も休まらない」と廃止し、一気に本社の集中管理に変えました。

●不着、誤配をゼロにするには「初心忘るべからず」。

支店が、そして従業員が増える。その中で、お客様への「不着、誤配」までも増加していったら意味もないんです。物によるサービスではなく、心を込めた配達をすること。「不着、誤配ゼロ運動」をやったりもしましたね。何気ない不注意にこそ気をつけてほしい、と。

徹底した配達法を守ればミスは起きない。自分の体験を元に、ルールを作りました。

  1. マネージャーが紙分けを行うこと(予備紙1部プラス)。
  2. 担当者は順路帳通りに組み順路帳通りに配達すること。
  3. 支店に戻ったら、すぐ余った紙を確認すること。
  4. 余った紙に間違いがあった場合、順路帳を見れば自分のミスにはすぐ気付く。

当然のことばかりでしょうが、仕事に慣れてくるとついつい疎かになってしまうもの。入社した時の真摯な気持ちをいつまでも忘れずに、お客様と触れ合って欲しいと思いました。

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