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柳原50年の歴史

新聞業界50年の歴史を語る【総集編】

第10回(平成17年2月号)

平成5年から7年に掛けての2年間は「静岡県販売連合会」の理事長としての任務を務めました。

新聞販売業を、「企業」と認められるための転換期といってもいいのではないでしょうか。

●労働基準監督署から徹底的に新聞販売業への調査が始まりました。

静岡県販売連合会には、中日新聞店以外の県内全ての販売店、約150店が加盟していました。販売店に発生する様々な問題を解決していきましたよ。 私が理事長職に就いた当時は、新聞配達業の労働条件はまだまだ確立していない状態。朝刊だけを配達する人や夕刊だけの人、集金屋さん、営業専門の拡張員、そして中学生のアルバイト…。

時間一つを取っても、時間外労働が当たり前。他業種と比べてみても、別世界でしたよね。

●労働条件を整えるチャンス。 早朝や深夜の労働は当然避けられない。

月1回の休刊日以外の休日もない、という中、「休日を作ること」「中学生の場合は学業と労働を合わせて6時間以内にすること」等、労働基準監督署から県内の各新聞店へ調査と名打った指導が徹底的に行われました。

現在の新聞販売業の労働条件の基盤は、この頃にできあがったというわけですよね。

●ビー券、鍋釜合戦の氾濫。

他県では今も行われている景品販売ですが、昭和30年代までは例外なく静岡県でも行っていましたよ。

「ご挨拶」と差し出すタオルにビール券を挿んだ『ビー券合戦』、中華鍋やフライパンを自転車の荷台に積んで営業に歩く『鍋釜合戦』…。物が豊かになると、お客さまからは「鍋は入らないから新聞代をまけろ」との声も出て。

そんな時、公正取引委員会から警告が入りました。「景品販売の営業はやめろ」「景品を使うのなら、その分新聞の価格を下げろ」と。 でも、もし新聞代が自由価格になってしまったら…。業界はバラバラになってしまうだろうし、販売店に将来は全く見えない。

連合会で話合い、景品を使わないで「定価販売」を守り抜こう、と皆の意を固めましたね。

●全国でも珍しい「静岡新聞社」側の方針は、結果的に大成功。

景品販売廃止が、どうして静岡県だけができたのか。それ は静岡新聞社が「大店主義」という経営方針を掲げたからなんですよ。

販売店の持つ販売エリアは、私たちが他の店主と話し合ったところでどうすることも出来ない、新聞社から指定されたものなんです。

他県のほとんどの新聞社が打ち出す方針は、エリアを小さくしたものでした。販売店の規模を制限し、小さな店を幾つも作ることによって「販売店に権力を持たせない」という考えでした。これでは、景品を使ってでもお客さまを確保しないと経営そのものが成り立たない。

そんな中、特別な販売形態を取った静岡新聞社には感謝しています。当社のように大きな店として経営ができるということは、他県では見られない、とても珍しいことなんですよ。

「新聞価格を変えない」「景品は出さない」という約束事もこの「大店主義」があったからこそ。日本新聞販売協会の会合に出ても「静岡県は羨ましい地域だ」と非常に褒められました(笑)。

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第11回(平成17年5月号)

8支店の運営に、東海オリコミ、ザ・ニュース浜松と展開していた頃の苦い思い出として「ミッド浜松進出」や「事業税の課税問題」が思い起されます。

●東京からやってきた「ミッド」。

昭和62年、東京に「ミッド」という会社が設立されました。 これは、新聞店の主な収入源となる新聞折込みに対抗した「チラシ」や「ダイレクトメール」の宅配という業種。全国展開をした中で、静岡県内では唯一浜松への進出が決定しました。

単に東京の会社というだけなら大した不安もないですが、地元の大企業である『ヤマハ』が参入し「事業開発部ミッド」を立ち上げたんです。16万世帯をカバーする、と謳っている。これでは、チラシの大半がミッドに流れる可能性さえでてくる。脅威でしたね。

毎週火、金曜日、各家庭にお届けするという働き手のターゲットは女性。早速動き出した「ミッドレディ募集」の説明会にも潜入しました。ヤマハには自分の顔は知られていないと察しまして(笑)。多くの女性が集まっていましたよ。

かつて折込みを利用していたヤマハの下請け会社から音楽関係、銀行、タクシー会社の広告はすべてミッドを利用し始めました。

●対抗は全新聞店で団結した「新聞ネットワークサービス」。

当時のNNSのパンフレット

昭和62年11月18日にミッドが立ち上がると、その2ケ月後に県西部全系統の新聞店組織「新聞ネットワークサービス(NNS)」を誕生させました。 連日、柳原新聞店の2階が会議室となり、全販売店が団結。ミッド以上のサービスを目指し、DMから商品サンプル、クーポン広告も新聞店で取り扱おうと決めました。そんな中、ヤマハは3年余りでミッドから撤退。

結局、単なるポスティングに広告の価値は高められなかった。広告というものは、新聞に挿んであるからこそお茶の間に運ばれて家族皆が目を通すんです。折込み業は新聞店以外には「無理」との結論がでましたね。

●あらためて振返っても凄いこと。

それは「系統を越える」という全国初の組織でした。 「NNS」は、我が社(一貴氏)が提案したものでした。オリコミ会社を併設し、宅配業のノウハウを熟知していたからこそ掲げられた対抗策。中日を含む全系統が賛同し県西部全79店が加盟。全国的にも画期的な組織と注目されましたよ。

一紙のみを扱う「専売店」で成る他県では、同業者はすべてを敵と見なし、他店との情報の共有化など決して取ろうとしない。それが新聞販売業の世界だったんです。

にも拘らず、私たちが全店で成し遂げたミッド対策は、県西部販売店の偉大なる団結力を世間に知らしめた、そんな時代でした(笑)。

●「事業税」も免除される程、社会に貢献する職業と認められていました。

ちょうど同じ頃、事業税問題も起こりました。事業を行うからには、当然地方税である「事業税」を納める義務があります。でも、新聞販売業は免除されていたんですよ。

時代を溯れば、明治29年から営業税(事業税)は始まっていました。が、明治44年「新聞販売業は決して利益を追求して商売をしているのではない」と判断され、廃止されていたのです。

新聞販売店は、ほとんど年中無休で朝・夕に配達している、一般家庭の生活パターンに応じて一定時刻までに確実に届ける使命を果たしている、購読料は独占禁止法で規定されており販売店が任意に利益の追求に走ることはできない、営業範囲は新聞社との契約で限定された区域の中のみ…様々な理由で、公益性が認められていたんです。(病院も「人の命を救う職業」と事業税は掛かりませんでした)。

そんな中、次第に景品を使い派手に拡張に動き出した新聞の営業に「このやり方でいくのなら課税すべき」と自治省で議題に上がり、約10年間もの討議の結果、平成6年事業税課税が決定しました。

今、静岡県内では景品営業は禁止され、正々堂々とお客様と接する営業に努めています。私たちのやり方が全国で守られることができていたのなら「事業税」は廃止のまま、公益性の高い職業と認められ続けたのかな、と思ったりもしますよね。

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第12回(平成17年6月号)

柳原新聞店では、他の新聞店では真似を出来ない程の様々な行事やイベントを行っています。そのきっかけとなったのが、今からちょうど10年前に溯るのです。

●中日東海本社から受けた影響とは。

昭和40年代に入ると、薬師町に中日東海本社が設立されました。読売新聞社は「巨人」、そして中日新聞社は「中日」の球団を利用したサービスをお客様に展開している。中日新聞社の営業力はどんどん勢力を増してきました。

それに対してうちは何のサービスもない。何とか「店の特徴」を打ち出して、お客さんの「固定化」を狙いたいと考ました。

●毎日ビジネスサロンの誕生。

毎日新聞社も新聞の部数に限界を感じているようでした。そこで立ち上げたのが、毎日新聞社開発推進本部による「毎日ビジネスサロン」。

これは、新聞店が新聞販売業だけでなく、あらゆる方向へと発展する可能性を信じ、異業種とのビジネス交流を深めたものでした。「店を多くの人に知ってもらう」「名前を世間に売る」「店の存在感を高める」ことを目的に、新聞店に勉強の場を提供してくれましたね。私は積極的にこのサロンの参加へと動きました。

●初の単独イベントは城北店のオープニングイベント。

推進本部から来浜し、「地域との交流」「柳原新聞店を知って頂くための手段」等、様々な指導を受けました。 地域の人たちに向けたイベントの「初」となったものは、平成4年10月24日「城北店オープン記念、感謝のつどい」。城北本店の新社屋の完成の式典を地域の人にも祝って頂いたのです。

旧事務所2階をコミュニティールームとし、ビジネス講演会『バブル崩壊後のビジネス社会生き残り術』(講師、毎日ビジネスサロン幹事長水野勝弘氏)には24名が参加。今でいう「毎日文化サロン」の前身です。他にも北大路魯山人レプリカ展、有名ブランド腕時計フェア…。一日70名様を限定としたタロット占い館は行列ができる程の大盛況でした。

●様々なサービスが今始まりました。

エムズ倶楽部城北サロン/英会話

地域との交流を強めるために「メッセージメイルエム」というミニコミ紙の発行も始めました(平成5年6月創刊)。読者の皆様から届く「譲ります」「譲って下さい」「おめでとう」とメッセージを一同に掲載したもの(エムズニュースの原点ですね)。

他にもカスタマーレディの採用、毎日文化サロンの定期開催、そして、独自で考え出したのが今展開しているエムズ倶楽部。

お客様の為に…と、毎日新聞社のビジネスサロンから学んだノウハウ、そしてその延長が、今もなお立派な形となっていることには満足ですね。

他店にはない特色を持ち、他店以上の社員の質の向上は、私が新聞販売業を始めた当時の予想を遥かに超えた喜びを味わわせて頂いています(笑)。

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第13回(平成17年7月号)

平成6年春、急に心臓に激痛が走る。脈拍が40以下に下がる、呼吸が止まる…。救急車で運ばれた浜松医療センターでは、人工呼吸が繰返され、一昼夜の絶対安静。そして同年12月9日、2度目の入院。運動で鍛えた身体に合った脈拍、1分間63回に設定されたペースメーカーを埋め込む大手術が行われたのでした。

●そろそろ世代交代を…。

少しずつ体力の限りを感じてしまうようになりました。ある日、主任会での席で、主任と私とで言い合いになったんです。お互いに激しい主張をしている最中、また苦しみが…。自分でも元気だけが取り柄だと思っていたのに…。「そろそろ社長の座を譲る時が来たな」と感じましたよ。

茨城での修行を終え、オリコミ会社も10年で一人前にしてくれた。もう譲って大丈夫、と自分に言い聞かせる日が幾度となく訪れていました。寂しさや未練もありましたけどね(笑)。

今、思い起せばお客様にポストを買ってあげたこともありましたよ。木製の赤いポストを約1000個。ポストがない家があるんです。「新聞が濡れてしまうから使って下さい」って。

また、産経新聞の取扱いを始めた頃のこと。夕刊は浜松に届かない。新聞社からの援助も望めない。でもお客様は待っている。結局、新幹線の定期券を購入し、夕刊の配達に合うようにと、毎日毎日東京に新聞を取りに行きました。国鉄からは「新幹線は物を運ぶ乗り物じゃない」と何度も注意を受けて…。そんな日々が2ケ月続き、やっと専属の業者にお願いできるようになりました。

「読者の要望に応える」という現場主義の私のやり方から、「読者の要望の先を見越したサービスを展開する」社長流に会社も染まってきました。良い方向に進んでいく姿は、また柳原の柱が太くなったようで嬉しいです。

●浜松の発展を浜松商工会議所に託す。

写真:本社

商工会議所からは、人脈を広げるという大きな財産を頂きました。また、情報文化部会の副会長を任されていた私は、最新の設備を備えた産経新聞社の工場が浦安にできると、研修として皆を誘いました。越中島にスポーツニッポンの印刷工場ができると声を掛け…。

なぜ私が印刷業界に力を入れたか、といえば浜松は遅れていたからなんです。大手の印刷となると、すべて小田原や名古屋へ流れる。浜松で何万、何十万という大量部数を印刷できる会社がない。オリコミ会社に身を置く私としては、じれったかったですね。大きな仕事はすべて他所にもっていかれて…。これでは浜松は発展しない。

様々な研修を通して、浜松印刷(現中部印刷)がやっと設備投資を始めた。印刷会社も折込会社も新聞店もこれからはもっと頑張れる、と感じました。

社長が26才の時、当時の商工会議所の課長さんから青年部へ入れないか、と誘いを受けました。経営者の二世が集う会。「勉強する機会に」と経験を積んだことが、現在の経営的な考えを持てる成長の原点となれたのではと思っています。

74才から3年間、商工会議所の議員に推薦されました。無事任務を終え、浜松の商業の発展に少しでも貢献できたと思って頂けたのなら、嬉しいですね。

●私の思い出の人。

毎日新聞販売局次長で、茨城で社長がお世話になった西村さんへの恩は言葉では言い尽くせません。

創業当初からの担当員として常に私をサポートしてくれた人。発証表や店の売り上げ、何でも彼には見せました。同じ年ながら全信頼を寄せていましたよ。お酒が強く、飲んで明るくなる人。うなぎやドジョウといった長いものが嫌いで(笑)。「駅前の読売なんかに負けないくらいの店になれよ」。私を励ます言葉がいつもの口癖。「信頼される人になって、この地域をまとめてやれよ」。正義感の強い西村さんにはどれほど助けられたことでしょう。

そして、私を、浜松を心配してくれたのが江崎新聞店社長の江崎鐵郎さん。

静岡県毎日会会長であった彼は、中日東海本社が浜松にできると決まった時、当時の中日本社社長の加藤己一郎さんに直接掛け合ってくれた人。浜松に新聞社が出来ても、「題字は変えないこと(浜松新聞と変える可能性もあった)」「定価は静岡新聞以下にしないこと(安い購読料を設定するという動きが見えた)」と。「中日の思うままに行動を起こされたら業界は大混乱してしまう」と語る姿には、この上ない思いやりを頂きました。他にも、多く方との巡り会いがあり、色々な形で助けて頂きました。

●最後に…。

県西部での扱い部数はお陰様で第一位へと成長しました。今日があるのも、各新聞社の担当員の皆様のお力添と感謝の気持ちでいっぱいです。この先、新聞業界は、合併、共同販売、と形は変わるかもしれません。

いずれどんな時代が来ようとも『前進あるのみ』。社員の皆さんも、そして社長も、発展し続けて欲しいと願っています。

新聞業界50年の歴史を語る【総集編】

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