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地域言い伝え

『井伊直親公の墓』

井伊直親は徳川四天王で有名な井伊直政の父親です。

『井伊直親公の墓』は国道257号線(通称・金指街道)新祝田橋北岸の堤防道路を西へ300メートルほど行った堤防の下にありました。堤防の上からは細い道が整備されていますがゆっくり行かないと見過ごしてしまいそうな所です。

土盛の上に小さな石碑があり、その手前に嘉永4年(1851)子孫の井伊直弼が墓参に訪れたおり寄進された灯籠が一対ありました。

説明版によるとお墓は200メートルほど東にあったのですが堤防移築のために昭和52年(1977)12月に現在地へ移転されたということです。

井伊肥後守直親は井伊直満(20代当主井伊直平の子で21代当主井伊直宗の弟)の子で、井伊家23代当主です。当主だった期間はたった一年半です。

井伊氏は遠江の在地領主で中世から500年井伊谷(北区引佐町)辺りを治めていました。
室町時代から戦国時代に掛けて遠江国守護を今川氏(駿河国守護)と斯波氏(尾張国守護)は奪い合っていました。今川氏と斯波氏は遠江で従属支配されていた井伊氏などの在地領主を巻き込んで戦いを続けていたのです。井伊氏は斯波氏の守護が約80年続いた期間に斯波氏と近い関係になっていました。

そうした中、斯波氏の勢力が弱まり永正5年(1508)に遠江国守護は今川氏親(駿河国守護・義元の父)に変わってしまいます。当主井伊直平は旧守護斯波氏に従って現守護今川氏と戦いますが敗れてやむなく今川氏に従属します。しかし、主君となった今川氏とは表面上従属されながらも微妙の関係で今川氏と井伊氏はお互いに警戒しあっていました。

天文11年(1542)直宗が遠江国守護の今川義元命令の三河田原城攻めで討ち死にし子供の直盛(直親とは従兄弟)が22代当主となります。天文13年(1544)直親の父・直満が当主直盛に嫡男がいなかったため直親を養嗣子にしようとしたといわれています。直満の動きは家臣の反感をかいます。それは守護今川氏の意向に沿わないことでもありました。

井伊家家老の小野和泉守は対応に困ってしまいました。小野和泉守は在地領主一族(現在の浜北区尾野辺り)の出身だったのですが井伊氏に仕えていたのです。小野和泉守はやむを得ず直満の様子を今川義元に伝えました。すると義元は怒って直満とその弟の直義を自害させました。子供の直親も命を狙われたので家臣今村藤七郎正実に導かれて信州松源寺(長野県伊那谷)へ逃れました。

直親は弘治元年(1555)やっと井伊谷に帰り22代当主直盛(直親とは従兄弟)の養子となり、一族の奥山因幡守朝利の娘を妻にして祝田(北区細江町中川・墓の東約500メートル辺り)に住みます。ところが永禄3年(1560) 今川義元が織田信長
に敗れた桶狭間の戦いで今川軍に参加していた直親の養父直盛は討ち死にします。

永禄5年(1562)、井伊家当主直親は今川氏が弱体化する中、遠江を狙っていた徳川家康の誘いに乗りかけました。そのことを家老の小野但馬守(小野和泉守の子)が今川氏真(義元の子・今川家当主)へ伝えたため、直親は氏真に疑われます。

疑いは新野左馬助親矩(今川氏の一族・井伊直盛の妻の兄)のとりなしで一度は治まります。直親はそのお礼のため従者19人とともに駿府へ向いました。その途中12月14日に今川氏の譜代重臣で掛川城主の朝比奈備中守泰朝に殺害されました。27才でした。直親の遺骸は掛川からこの地に運ばれ都田河畔で火葬されて墓が建てられました。法名は大藤寺院剣峯宗惠大居士といいます。
翌年永禄6年(1563)9月には祖父・直平も犬居城攻め(社山城ともいわれています)に向かう途中、当時の引間(曳馬)城主飯尾連龍の妻お田鶴の方(椿姫)に毒茶を呑まされて幡屋村(東区有玉南町)で死亡しています。

永禄4年(1561)2月直親の子直政生まれていましたがまだ小さく、母が父の死で松下源太郎清景(頭蛇寺城主一族・南区頭蛇寺町)に再嫁したため松下の姓を名乗ります。その後、直政は龍譚寺(北区引佐町井伊谷)にかくまわれるなどしながら新野左馬助親矩や直虎に養育されます。直平死後の井伊氏は直盛の娘が井伊直虎(別名女城主次郎法師)と称して当主を代行していましたが領地を減らしていました。

永禄11年(1568)にはとうとう徳川家康が井伊谷三人衆(近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時)の案内で遠江へ侵攻し、井伊谷は井伊谷三人衆が井伊氏に代わって治めました。捕えられた小野但馬守は家康の命令によって永禄12年(1569)4月に井伊氏処刑場蟹渕で獄門となっています。5月には小野但馬守の2人の子供も殺されます。

天正3年(1575)鷹狩りの途中だった浜松城主徳川家康に直政は小野朝之(小野但馬守の甥・母は奥山朝利の娘で直政と従兄弟)を連れて会います。家康は直政を松下から井伊に復姓させ、井伊谷の旧領を回復させています。その時、家康は自分の幼名「竹千代」にちなみ「万千代」の名前を与え、お供の朝之には「万福」を与えました。

その後、井伊直政は徳川家康に仕えて幾多の合戦で戦功を上げます。家康の関東移封に伴い井伊谷を離れました。

直政は後の近江国彦根藩の礎を築きましたが、関ヶ原の戦いの際に受けた傷が元で慶長7年(1602)石田三成の旧領佐和山城で亡くなります。

浜松市民のほとんどが知らないこのお墓に遠江国で起きた多くの戦いの歴史が秘められているなんて知りませんでした。

城北店・杉山

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