葵と菱の古戦場 ?三方原台地を行く?
徳川家康公の七十五年間の生涯は我慢と試練と合戦に明け暮れていたと言っても過言ではないです。その人生の軌跡をたどると「五度の危難」と「六度の大戦」を見事に克服して天下人とい栄冠を手中にしました。栄光の影に波ありという言葉が実感として身に迫ります。
五度の危難というのは次の様です。
・織田信秀のもとに戸田康光によって売り飛ばされた時。(徳川家康公 六歳)
・今川義元が織田信長の奇襲に遭遇してあえない横死を遂げた時。(徳川家康公 十九歳)
・三河一帯に燎原の火のような広がりを見えた一向一揆の時。(徳川家康公 二十二歳)
・三方原台地を主な戦場として展開をした武田信玄軍とのデットヒートによる大敗北を喫してしまった時。(徳川家康公 三十一歳)
・京都は本能寺において、明智光秀の叛反により織田信長は不本意な死を遂げる。信長より安土で接待され、境貝物していた家康公主従は、かろうじて虎口を脱した時。(徳川家康公 四十一歳)
六度の大戦というのは次の様である。
・信長の援軍として参加した柿川の合戦。(徳川家康公 二十九歳)
・葵と菱が激突した三方原合戦。(徳川家康公 三十一歳)
・鉄砲という最新兵器を大量に使用して、戦国の世の収束に目途がついた設楽、長篠の合戦。
・羽柴秀吉の大軍と相対峙した小牧、長久牛の戦い。(徳川家康公 四十三歳)
・天下分け目の合戦と言われる関ヶ原合戦。(徳川家康公 五十九歳)
・大坂の夏と冬の陣。(徳川家康公 七十三歳)
危難と激しい戦争を体験し、それらを克服するとともに人間として武将としてたくましく大きく成長するところが家康公の特質です。世に言う三方原合戦は家康公と三河以来の家臣が全力投球して死闘を繰り返しましたが、多勢に小勢で結果的には惨敗を喫してしまいました。しかし、浜松城は死守したのです。この惨敗は、家康公に大変な教訓を残してくれました。収穫が多く、又生涯この時の大敗北を脳裏に浮かべては反省材料にしていたのです。
家康公はこれから後、武田信玄の軍法や軍略及び、経世済民策を積極的に受け入れてフル活用しています。大河の反乱を沈静させる治山治水の手法は武田信玄のお家芸でしたが、全面的に採用しています。転んでもただでは起きなかった家康公の処世は「浜松っ子」の「ハングリー精神」のルーツであり元祖となって今日でも脈々と受け継がれています。
ところで三方原台地では、南北十五キロメートル、東西十キロメートルの洪積台地でありますが、赤土と砂層の痩せ地であります。内山真龍編さんになる「遠江舎土記」によりますと、水が無く、人家なく雑木と小松の繁茂している草原でした。近年まで開発が遅々として進歩をみない不毛の土地でした。しかし、現在は、政令都市、浜松の発展を支えているところです。
三方原は、古来より篤形原、身方原、味方原、三形原、御県原など色々な字で表現されてきています。家康公は味方原と侍字、好字で表現しています。
三方原合戦の行われた地域は現在の城北地区、萩丘地区、三方原地区、細江地区や浜松城周辺だったと想定されます。
平手汎秀神社伝説、布橋伝説、小豆餅と銭取り伝説、小粥と白尾の姓に由来している伝承などに合戦の模様が理解できます。
三方原合戦の主戦場については、「三河物語」では、「浜松から三里の所で合戦」と記生しております。「浜松御在城記」には、「浜松よりも三里御出勢、御対陣」とあります。戦国の世には、名将として後世に芳しい名を留めた方は多いにおられますが「徳川家康公」はロゴスとパトスを巧みに使い分けたことは空前絶後です。今日、好視点で家康公を検討するとメリットとデメリットがありますが、乱世を統一して平和な世の中を創った点では素晴らしかったのではないでしょうか。まさに、徳川家康公は「やらまいか精神の文化」でした。

(日本戦国史研究家:加藤鎭穀 曳馬在住)








