有玉伝説をゆく
世に名高い「有玉伝説」とは写本として伝わる「遠州岩田の海袖ケ浦由来記」の名で人口に膾灸(かいしゃ)している。この伝説は三方原台地東緑とその周辺に幾世代にも亘り連綿と語り継がれて今日に至っている。伝承とか伝説のストーリーは地域により若干のニュアンスの差異が見られるのである。本紙面では、内山眞編さんによる「遠江舎士記伝」に採録されている話をベースにして現代風にアレンジしてみよう。


昔、岩田の海(今の三方原台地と磐田原台地の間)に三千年を経つという赤蛇神が棲息していた。一日に二度海を渡る船がれば怒涛逆まき必ずといってよいほど転覆していたので往来の旅人や里人の難儀ははかりしれないものがあった。
時に天皇の命により坂上田村麻呂は征夷大将軍として、この地、磐田原台地と三方原台地の間を望見できる西岸の地である船岡山に着陸した。赤蛇神による危難も潮海寺薬師菩薩の霊驗によって無事に治まり渡る事ができた。征夷大将軍、坂上田村麻呂は東征の役目を無事に果たして、岩田の海の東岸である山名郡まできた。行く時と同じように岩田の海は、荒れるにまかえていたが薬師菩薩の力におすがりして無事西岸の船岡山に船で着いた。
ある日、将軍の陣屋にひなには稀な美しい乙女が訪れ、将軍の世話をかいがいしくした。やがて将軍の子を宿すことになった。この美しい女性が言うのには「私は今から産屋に入りますが、二十日間は入ったり、見たりしないで下さい」と言い、部屋の入口の戸を堅く閉ざした。見るでないと言われると見たくなるのが人の常でもある。将軍は十二日目に誓いを破って密かに産屋を覗いてみると、大蛇は八重に身を巻き赤子は既にその間に生まれていた。将軍はびっくり仰天して産屋に押し入ると赤大蛇はたちまちもとの美しい女性に変身したのであった。
「姿が露顕したからには、故郷の岩田の海に帰らなければなりません。つきましてはあなたと私の間に誕生した御子を立派に育ててください。私も陰ながらこの子のお守りをします。」と言って「潮干の珠」を御子に授けて海中に身を隠してしまった。身を隠す前にこうも言った。「私の素性を申せば滄海に住みて三千年を経たるこの海の主人。」
この御子が八歳に成長した時、東夷が反惹を見せたので天皇より父子に討伐の命令が下った。御子の名は「俊光将軍」と言った。


ここ有玉の里に着くと岩田の海は逆風にわかに吹きすさび、大波が沸き立った。今は一刻の猶予も許されない。時に俊光将軍は、母から授与されていた「潮干の珠」を御身よりとって海に投じた。するとたちまちにして海は枯れて一面の陸地の続く平野が現れた。そしてこの「潮干の珠」が投じられへこんだ所を「有玉」と言い、その珠の光るところに建てた社を俊光将軍社と言った。これが有玉伝説の概略である。
ところで現在の天竜川は名称を何回も変えている。古くはあらたま川、広瀬川と言い、中世には天中川と言った。大夫竜・小天竜と言われたこともあった。浜松平野(浜名平野)の発展は天竜川の賜物と言えるのである。一説によると坂上田村麻呂は帰化人の後えいである。三方原台地とその東緑一帯の開発には帰化人や渡来人によって進められているという。渡来人や帰化人の功業を「有玉伝説」に仮託して伝世したとも言えるのである。浜松地方の隆盛は優れた他人によって成立していると言っても過言ではない。

(日本戦国史研究家:加藤鎭穀 曳馬在住)








